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A Dose of Rock'n'Roll

いろんな国の映画について書いています。それから音楽、たまに本、それとヨーロッパのこと。

火の山のマリア(2015)

少し更新が滞っておりましたが、今日は非常に珍しい、グアテマラの映画のレビューです。
日本よりもドイツでの公開の方が遅かったようですが、とてもよかったです。
 
原題: Ixcanul
制作: 2015年 グアテマラ、フランス合作
監督: ハイロ・ブスタマンテ
出演: マリア・メルセデス・コロイマリア、マリア・テロンフアナ、マヌエル・アントゥン
 

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あらすじ ・・・ 
グアテマラの山深い土地に両親と貧しく暮らすマリア。普段はおとなしい彼女は、密かに今の暮らしから抜け出したいと思っていた。そんな願いを叶えてくれそうな農場労働者の少年ペペと出会ったマリアは「一緒に連れていく」ことを条件に処女を捧げる。しかし、ペペはマリアに何も告げることなく、ある日アメリカを目指して旅立ってしまったのだった。
そんなマリアに残されたのはお腹の中の子供。しかも彼女には親が勝手に決めたかなり年長の男性との結婚が控えている。婚約者のイグナシオは地主であり、両親もこの結婚によって生活が上向くことを期待している。そのために最初はまじないで流産させようと試みる母親だったが…。
数奇な運命に翻弄されながらも、最後には立ち向かおうとするマリアの姿が描かれる。
 
!!! 以下、ネタバレを含みます !!!
 

 

おそらくは唯一のカクチケル語で撮られた作品。
恥ずかしながら、この映画を観るまでグアテマラ、いやそもそも中米でのマヤ人の生活など全く知らなかった。言われれば確かに先住民がいるのは当然なんだけど、言葉はスペイン語が話されてると思っていたし*1、火山があることなんかも初めて知った。
 
そういった、グアテマラの”いま”を世界に発信したという意味でも意義深い作品だ。
日本で初めて劇場公開されたグアテマラ映画だそうです。米アカデミー賞外国語映画賞へのノミネートも初 → 映画「火の山のマリア」公式サイト
 
 
しかし、本作が真にリアルなのは、表面的なことだけではなく、グアテマラ社会の暗部をえぐり出すことに成功しているからだ。問題、それも、いくつもの。
”持たざるもの”の象徴として登場したマリア親子にふりかかる苦難、また苦難。はじめは一つだけだったはずの問題がいつの間にか他の厄も呼び込んでしまっているわけだが、そこでの彼らの見事なまでのなすすべのなさ。これがグアテマラ社会の縮図そのものなのだろう。

  • マリアの妊娠
前半ではマリアとその周辺の様子が丹念に描かれている。原始的な農業に従事する人々、土地所有者との圧倒的な格差、そこに娘を差し出す(嫁がせる)ことで生き延びようとするマリアの両親、なけなしであるはずの金をとりあえずの酒に変えてしまう若者たち、そしてそんなペペにいとも簡単に体を差し出してしまうマリア。

詳しくは描かれていないが性に対する正しい知識など教えられてこなかったのは明白だ。彼女の妊娠が発覚してから行われる「まじない」の数々は、そもそも土地の住民たちがいかに原始的な生活を送っているかを見せつけてくれる。

  • ヘビにかまれるマリア
そんなまじないも効果はなく、「この子は生まれたがっている」という結論に親子は至る。これで丸く納まるかと思いきや、マリアが毒ヘビにかまれて意識不明になってしまうのだった。
この作品を通して出てくる「ヘビ」というのが、象徴的でよかった。冒頭より住民が悩まされており、農薬もきかないと嘆かれる存在なのだが、なぜだが作品に通底するテーマを象徴しているように私は感じた。そして「それ」に主人公がやられることで物語は転機を迎えるのだ。長編デビュー作と思えない、監督の力量を感じた。
 
  • 病院でのできごと
意識不明になって運ばれた病院で起こったことは、露骨なほど格差社会をあらわすものだった。スペイン語が話せない家族は、とにかく病院でも意思疎通ができない。そして、イグナシオ(スペイン語を話せる)に言われるままによくわからない書類にサインだけさせられる。しかし、それはマリアが出産した赤ん坊を売り飛ばすためのものだったのだ。

  • マリアの慟哭
死産だったと告げられたものの、マリアはそれでも赤ちゃんが見たいという。周囲が止めるのも聞かずに土を掘り起こしたあとでマリアが見たのは、ただの石だった。初めてだまされたことに気付く一同。終始感情をあまり表に出さなかった彼女だが、最後になって初めて激しい感情を見せる。
 
ここでの彼女の慟哭は何を意味するのか。後悔か、怒りか、それとも自分たちが”持たざるもの”であることへの絶望なのか。この意味を考えるところに、本作が目指したもののひとつがあると思う。まさにクライマックスだ。


ほとんどはプロの俳優ではなく、地元で集めたアマチュアや素人なのだが、”地元感”が出ているのは言うに及ばず、個々の”俳優”も本当にいい仕事をしている。特にマリア役のマリーア・メルセデス・コロイ。印象的な冒頭(=エンディング)のシーンからほとんどの場面で感情を表に出さず流れに身を任せ、ただ一度だけ内なる思いを放出させる。監督の演技指導、演出はまさにあっぱれというべきだろう。
 

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主演のマリア・メルセデス・コロイマリア。ベルリンにて。

Maria Mercedes Coroy Photos - 'Ixcanul' Press Conference - 65th Berlinale International Film Festival - Zimbio

 
また、母親役のもう一人のマリアの助演も素晴らしい。特に、警察に「赤ん坊を探してください」と母親が(もちろんスペイン語ではなくカクチケル語で)訴えるシーンには胸が締め付けられる思いだった。
 

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いきなりベルリナーレで銀熊賞。でも至極当然!
 

ここまで結構暗いシーンばかりつづってきたのだが、実は私がこの映画がすごく好きなのは、そういう”チャレンジ精神”のためではない。
映画が冒頭のシーンに戻ってきて、婚礼の準備をするマリアの無表情な顔が映されて物語は終わる。それから、なんとも明るいレゲエ調の音楽が流れ出してエンドロールが始まるのである。
そう、これ。このどこか”あっけらかん”とした表情、さしずめ「ってな問題もあるけどさぁ、それでもまぁ、人生は続くんだよね〜」という楽観主義。だから感動的だったんだ。

いくらでも重苦しい映画にできたはずなんだが、そんな悲劇的な結末を用意したって仕方ない。作中ほとんど感情を顔に出さないマリアに、それでも希望の光を最後に差し込ませたのは、監督自身の「これからのグアテマラ」に対する力強い意志がこめられていたからではないだろうか。

思わず力強い、と書いてしまったんだけど、鑑賞後の気分はちょっと違う。理由はもちろん、”火の山”。ほとんどのシーンの背景で見守られていたように、包み込まれる優しさに溢れた作品だった。
原題の『Ixcanul』は、何を隠そうカクチケル語で火山のことだそうだ。
 

*1:映画が始まってから「…?スペイン語じゃない…?」と驚いた。マヤ系の民族はたくさんの部族に分かれていて、実際には今でも日常的に多くのマヤ語族の言語が話されているそうだ