A Dose of Rock'n'Roll

いろんな国の映画について書いています。それから音楽、たまに本、それとヨーロッパのこと。

Exil (2020)

実はロックダウン以後今月まで映画館通いを復活できていなかったのですが、ついに先日再び映画館へ。当たり前ですが、家と映画に没入できる度合いが全然違って良いなあと思いました。

さて、そんな久々の映画館作品は、すごく”ベルリナーレっぽい映画”でした。以下、短いですがレビュー。そういえば、来年はベルリン映画祭、行けるのかなあ。。

 

 

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Exil (2020) - IMDb

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いかにもベルリナーレのパノラマでやってそうな、予想以上の”ハネケ映画”だった。これは私が勝手に作った造語でミヒャエル・ハネケに代表される、説明的なストーリーの運び方や演劇的な演出、過剰なBGMの排除といった演出的な技法に加えて物語自体も一見しただけではよくわからない、あるいは明確な結論が提示されないような不条理劇を特徴にした作品群のこと。あらゆる意味で作り手が観客に寄り添わないことで強制的に「考えさせる」ことを目的としているとも言えるし*1、淡々としているのに意外な展開や衝撃の結末が待っていることも多い*2

私はこういう不条理劇が個人的に好きなのだが、その理由の一つが「わかりやすいお話を持った映画よりもむしろリアルだから」という点がある。そう、現実の世界で生きる一人の人間にとっては「筋が通っていて」わかりやすいことの方が少なく、そうした自分の主観だけでは到底理解できない部分に目を凝らすことこそ世界と対峙する、つまり生きることに他ならない。もし自分の世界には理解できることしか存在しないというならば、それは単に理解できないことに対して無意識的に目を瞑っているに過ぎないのである。

 

このような意味(演劇的な作品よりも現実に迫っている)で、多くの不条理劇がより「日常的な」テーマを扱っているのは当然といえる。ドイツに住むコソヴォ移民である主人公が出どころのわからない悪意に苦しむという本作『Exil』も同じだ。

主人公ジャファー(Xhafer)は家族とともにドイツに住み研究所に勤める平凡な男だが、ある日を境に自宅に動物の死骸が投げ込まれたり、何者かによってベビーカーが燃やされていたりという嫌がらせを受けるようになる。彼はそれが職場の上司によってなされており、さらに原因はコソヴォからの移民という自らの出自に起因するものであると感じる。正体を突き止めようと歩き回る主人公はしかし、もがけばもがくほど蟻地獄の深みに嵌っていくのだった。

 

正体のわからない悪意に主人公が翻弄され精神の均衡を乱される様は、まさにハネケ『隠された記憶』を彷彿とさせる。過程と職場の往復という淡々とした毎日に奇妙な効果音だけをアクセントにし、ゆっくりとだが確実に主人公の正気を奪い「自分はこの社会から阻害されている」という確信に至らせる展開は、スリラーとしてもなかなかのもの。

さらに、”同じアルバニア系移民からの搾取(と露見)”という主人公自身の正当性への疑問を感じさせるイベントから、途中までジャファーとともに真実を見極めようとする観客が、実は彼についてのことを彼からしか知らないでいることに気づかせるという手法も秀逸だ。

これは語り手の信頼性*3を損なうことによって(スリラーとしては恐怖に直結する部分でもある)、日常への深い疑念を抱かせ、最終的に主人公が確信を深める「コミュニティからの疎外」を観客が体験する装置として機能している。

欧州各国では今や「日常」となっている移民をテーマに扱い、スリラーとしての手法で彼らの疎外感をあぶりだすことで逆に自分たちが生きる社会・日常への疑義を抱かせる、なかなかの佳作だった。特に有名な賞を取ったりもしていないので日本公開はない気がしているが、ミヒャエル・ハネケ好きの方にはぜひお勧めしたい一本。

 

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監督のヴィザール・モリナはコソヴォ出身で15歳からドイツに移住してきた人物。本作が長編2作目となるが、前作『Babai』(2016)はアカデミー賞外国語映画賞のコソヴォ代表作品として出品されたもので、こちらも機会があれば是非おさえてみたい。

キャストについても触れておくと、主演はドイツで活躍するクロアチア系の俳優、ミシェル・マティチェヴィッチ。さらにドイツ人の妻役では『トニ・エルドマン』や『希望の灯り』といった作品から日本でも知られるザンドラ・ヒュラー。さらに、私のなかでは”ありとあらゆる現代ドイツ映画に顔を出す”名バイプレイヤーのライナー・ボックが脇を固めている。

*1:ハネケ監督自身が『ベニーズ・ビデオ』のDVD特典にあるインタビューで「観客を揺さぶり起こす」ことに言及している。

*2:この「衝撃の結末」という言葉は誤解を招きがちだが、単なるどんでん返しがあるという意味ではなく、むしろ人物が衝撃的な行動を取ったにもかかわらずその背景が観客に必ずしも明かされないことが多いことを指している。

*3:わかりやすく言えば、一般的な物語での主人公というのは観客(あるいは読み手)がその視点から物語を眺める装置であるからして、彼/彼女が”良い人”=嘘を言っているわけではないという正当性が担保されている。逆にその部分への担保がなくなるということは語り手のことを信用できなくなるわけで、クリスティが有名だが推理小説では叙述トリックにも使われる(映画で言えば『シークレット・ウィンドウ』なんかもこの類だ)。

本作がどこまでそれを意識していたか(あるいはそれがスリラーとしての解なのか)はわからないが、注意深く見てみると鼠の死骸や燃えるベビーカー、さらには突然の投身自殺など、それぞれのイベントは「彼しか」いないところで起こっていることが分かる。