A Dose of Rock'n'Roll

いろんな国の映画について書いています。それから音楽、たまに本、それとヨーロッパのこと。

浮草(1959)

先日京マチ子さんが亡くなったというニュースに接し、追悼上映というわけではないですが何本か見直しておりました。
いや、特に思い入れがあるわけではないのですが、やはり『羅生門』『地獄門』をはじめとした時代劇における”コケティッシュなお姫様”というのが私の印象でした。でもよく考えたら現代劇を観たことないなーと思い、それはもうなんとなく観た『浮草』があまりにも刺さったので今日は少しそのお話を(文中、敬称略)

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浮草 : 作品情報 - 映画.com

 

(※ 以下、ネタバレしてるかもしれません…念のため)

 

あらすじ

『浮草』は小津安二郎監督による1959年作品で、34年の『浮草物語』(サイレント、モノクロ)をキャストと舞台を変えて撮り直したもの。いわゆるセルフリメイクというやつですね。なお、本作は小津監督唯一の大映作品とのこと。

 

京マチ子の話から入ってしまいましたが、本作の主人公は二代目中村鴈治郎が演じています。その主人公・嵐駒十郎は旅芸人の一座を率いる役者。伊勢志摩にやってきた彼は「贔屓の旦那に挨拶に行く」と嘘をついて小料理屋に赴き、そこで息子と久々の再会を楽しみます。

しかし、それを不審がった現在の妻である女優・すみ子(京マチ子)は店に乗り込み女将(=息子の母、杉村春子)に嫌味を言い、駒十郎につまみ出されてしまいます。大雨の中、駒十郎と大げんかをしたすみ子は、芝居小屋に戻ってから一座の若手女優・かよ(若尾文子)に息子の清(川口浩)を誘惑するように仕向け、話は思わぬ方向に…。

というのがあらすじです(なんだか最後まで書くの好きじゃなくて途中までにしました)。

 

作品評

一から十まで「小津調」で撮られたまぎれもない小津作品ではあるのですが、本作は他よりも情動的な映画で、そこが私にはなんとも魅力的でした。つまり、おなじみのもったりとした会話、美しい風景描写、柔らかなBGM、といったスローな流れから入って徐々にスピードアップ、中盤からはもつれた人間関係へのいら立ちを遠慮なくぶつけ合うようになる、というものです。

 

特にそうした「エモーション」を担ったのが駒十郎とすみ子の2人による関西弁での応酬。大雨の降る中での痴話喧嘩(絵としてもすばらしいですね!)、「世の中は持ち回りや!」と啖呵をきるすみ子に激怒する駒十郎。どちらも非常にスピーディなやりとりで、セリフ自体を吟味すれば持って回った言い方をしているのですが、観客の感情もダイレクトに掴みにくるようなものでした。

 

当然そうした口喧嘩も小津作品の常で、人物を中心に据えて腰から上を固定で撮るという構図で撮られているのですが、セリフの調子が異なることでカメラ目線による構図は他作品とは違った、より見るものの心に人物の「今の」感情をストレートに刻み込む効果がありました。(例えば笠智衆が「いやあそういうわけにはいかんよ」というのとは、全く違ったわけです。ちなみに彼も出演)

 

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これに比べると、若い2人=清とかよのやり取りは内容こそ情熱的(キスシーンも何度も登場する)ながら、先の2人に比べればはるかに淡白でのんびりしており、むしろ他の小津作品に広く共通するものがあります。(と言いながら、最後にかよが泣きながら親方に訴えるシーンは非常にエモーショナルなものでした)

 

※ 関西人は関西弁にやたらと厳しいという印象があり、これは正直あまり言いたくないのですが、全編関西弁による劇なので主役2人がネイティヴであることも影響があるように思います。関西出身の私としては、他の役者のイントネーションに若干違和感もありました。(Wikipediaによれば主役のおふたりとも大阪出身)

 

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さて、客の入りの悪さから一座を解散した駒十郎は、感情のぶつけ合いのあと、息子にも受け入れられず、とぼとぼと志摩をあとするのですが、ここのクライマックスですみ子が改めて登場。「もう一旗あげてみよう」という駒十郎と一緒に仲良く退場して、とても暖かい締めくくりになっています。

 

小津監督の作品って私はどちらかというと暗めな内容が多いように思っているのですが、本作は微妙なところ。暗いといえば暗いお話なのかもしれません。それでも最後には、最初と同じゆっくりとしたテンポに戻って画面から汽車が走り去る、という緩急によって作品が感動的なものに仕上がっています。ラストシーンで「やりましょ、やろやろ」と笑顔でうなずくすみ子もまるでさっきとは違ったテンポに戻っています(ここの京マチ子のかわいさといったら!)。

 

というわけで現代劇の京マチ子にもしっかりとハマってしまったのでした(いやでも、全編着物なんですけどね)。

 

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デビュー70周年、京マチ子映画祭 来月23日から:朝日新聞デジタル

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Floating Weeds (1959) / 浮草 | 100YasujiroOzu.com

(梶芽衣子の修羅雪姫っぽい…と思って再確認したらあんまり似てなかった)

 

付記①

芝居のシーンにもちゃんと尺を割いていたり、当時の風景や習慣を知る良い史料にもなるのでしょうが、まぁそういう目的で見ているわけではないので、詳しくは割愛。 それでもやっぱり、小津監督の視点でしっかりと伝統的な日本文化が切り取られていて、”古き良き”何かを見てしまうことは否めない。考えてみたら公開は59年、もうそんな日本的な習俗がそれほど残っていたわけでもあるまいに。ただ、これは外国の方からは非常に魅力的に映るだろうな、と他の小津作品と共通して思いました。

 

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(このDVDのパッケージかっこいい!! んですが、なんかこれだと侍ものみたいでは…?) 

 

付記②

勢い余って34年公開のオリジナル『浮草物語』も観てしまいました。こちらはモノクロでサイレント(Wikipediaによればもとはサウンド版)。お話としては違ったところはほとんどなく、『浮草』のセリフを読んでいるような気持ちになりました。むしろセリフが変わっているところの間違い探しみたいな面白さもちょっとあったり(大概の男はお弁当持って追いかけてくるよ」を「エビでもタコでもみんな岸へ寄ってくるわ」(すみ子→かよ)や「大高島でやってくる」を「一人前の役者になって」(駒十郎)など)。

セリフといえば、「もうすぐ検査だもの、甲種だな!」を当然戦後なので「昔で言ったら検査の年頃だもの…甲種やな!」に置き換えているのはさすがににやりとしました。なお、34年版は威勢のいい江戸言葉でセリフが書かれています。

 

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(主演女優はオリジナルの方が”流し”感が出てるように思います)

 

作品としては圧倒的に『浮草』の方が完成度が高いというか、お気に入りの作品だったのでしょうか、昔書いた脚本により踏み込んで細部まで緻密に再構成したのが59年版だった、という感じです。34年版がサイレントでセリフも挟むため尺の関係上、描き足りていないのは仕方がなかったのかもしれません。

踏み込んで、というのは、例えばオリジナルは全体的にコメディ的にまとめられているものの、59年の『浮草』は戦後小津監督が多くテーマに取り上げてきた「家族の物語」について深掘り。そこでは先に挙げた感情的なセリフの応酬も含めてシリアスなものになっています。

このコメディ色について『浮草』では主に食べ物と女の話ばかりしている3人の役者の軽妙なやりとりに集約されているといって良いでしょう。このおかげで、全体として暗くなりすぎず、さらに構成としてもかなりすっきりしました。

若者の恋についてももっと尺を割いたことは、旧作と違うモダンな視点を与えるとともに、お話自体にもより説得力を増す結果になっています。トーキー(しかもカラー)によって表現の幅が広がって作品の真価を引き出せた、というところでしょうか。

 

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(この2人が主人公…?という疑問はあるもののパッケージとしては見栄えいいよね)

 

 

ちなみにWikipediaでは『浮草物語』のさらに下敷きとなった作品があることにも触れられています。なかなか作品を観ることは難しいかもしれませんが、あらすじはここで読めます(確かに似てる)。 →『煩悩